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院長紹介

なかむら歯科クリニック 院長
ハッピーパートナー
中村 幸生(なかむら ゆきお)

【経歴】
■平成13年3月 神奈川歯科大学卒業
■平成21年4月10日なかむら歯科クリニック開院、同日より院長として勤務開始
■【医療法人幸美会 なかむら歯科クリニック】を平成24年3月2日設立
■厚生労働省指定 歯科医師臨床研修指導歯科医
■平成25年7月15日 厚生労働省指定 歯科医師臨床研修指導歯科医取得

内科、外科、耳鼻科、眼科、皮膚科・・・・そして歯科。 いろいろな “科” がありますが、嫌なものですよね、病院って (特に歯科は(笑)) ただ、そんな皆様の目的は “健康でありたい” これに尽きる! 人生において最も楽しいことの一つである 「食べる」 ということ。


その事に最も関係のあるお口の健康は、全身の健康でもあります。
また、健康とは表情にも表れます。顔の一部である口元の元気さは、全身の元気さのアピールにもなります。

なかむら歯科では、そんなお口の健康・元気さの維持に、少しでもお力になればと思っております。

 

 

院長(中村幸生)とは? 初めて語る過去から現在まで

子供時代の事

はじめまして。 歯科医師の中村幸生です。
私の子供時代というのは、ごくごく平凡でどこにでもいるような子供でした。
ただ少し違うのは、当時の記憶が薄い帰国子女ということだけです。

記憶が薄いというのは、父親の仕事の関係上、3歳ころの幼少時代にアメリカから日本に帰国した為に、アメリカ育ちということに記憶がなく、英語という語学を全く覚えていない点です。すこしでも英語を覚えていたら、後々の人生に役立ったと思うのですが、全く記憶にはありません。人から帰国子女だったら、学生時代の英語は楽勝でしょう、などと言われたことがありますが、英語は学生時代最悪で、嫌いな科目のベスト1で、苦手教科であり、いつも赤点候補教科でした。ヒアリング・読み書き全て拒否反応アレルギーの塊でした。

幼稚園・小学校時代は、どこにでもいる子で、野球をしたり、外遊びをしたり、当時流行の筋消し(筋肉マン消しゴム)を集めたり、ファミコン(ファミリーコンピューター)に夢中だったり、ごく平凡の幼少時代でした。

勉強は、可もなく不可もなく、といった状態で、平凡の成績だったと思います。 ただ、自分には同級生の従兄弟が2人いて、当時正月などの親族の集まりになると、親同士、子供達の成績を比較していた事に不快を感じ、出来の悪い自分は居心地がよくなかった事は鮮明に覚えています。

小学校時代には、親の期待により、塾やお稽古事に沢山行きました。スイミング・習字・そろばん・ピアノ・バイオリン・サッカークラブなどなど。全てに言えることは、習い始めてすぐに飽きが来て止めることでした。

最短で辞めたのはバイオリンの1日がありました。あまりに長続きをしない自分に対して、父親が激怒して、「幸生は何をやっても、すぐに止める。どうせ何かを始めても長続きはしない」という強烈の言葉が今でも鮮明に残っており、これが後々の学生時代のクラブ活動で、卒業間際まで引退をせずに、継続した原動力となりました。

中学時代の事

中学校は、当時の小学校時代の成績からいくと、とても運がよく、高校3年生までの6年間一貫教育の私立の進学中学校に行くことになりました。

しかし、その運も長続きしませんでした。

当然の事ながら運良く場違い的な学力で入学した為に、入学後の成績は常に学年で低空飛行。ただ低空飛行の中でも、人並みに出来たのは、数学と理科でした。この2教科だけは当時好きでした。

クラブ活動といえば、小学校時代の悪い癖が抜けず、柔道部・ソフトテニス部(軟式庭球部)を入部してはすぐに止め、結局は帰宅部でした。

学校の授業が終われば、すぐに帰宅して、勉強・親の手伝いなどという優等生ではなく、授業が終われば、そこから自分のゴールデンタイムの始まりでした。 中学校・高校とも通学にバスと電車を乗り継いで、約100分片道に通学時間がかかっていました。

帰宅までには遊びの誘惑がとても多く、夕方に授業が終わったにも関わらず、帰宅時間は常に夜でした。ひどい時は、帰宅の際に友人の家に長居をして、最終バスの時刻に間に合わなくなり、友人宅にて宿泊する事もあるくらいでした。

高校時代の事

高校時代の自分は今までの自分とは、一つだけ違った事があります。それは、クラブ活動を3年間継続したこと。
周囲の人から見れば、大した事には見えない、この事が自分にとっては、革命的な事でした。いままでの自分は、何をやっても継続しない。

習い事・塾・全てにおいて。それが、3年間継続した事は後々の人生の自信にも繋がり、ここから多くの事を学びました。


入部したクラブは陸上部、しかもマイナー競技のやり投げ。陸上部といえば、花形の短距離や駅伝を行う長距離をイメージされますが、自分が入部したのは陸上部の投擲(とうてき)でした。

入部したきっかけは、高校1年生4月のスポーツテストのソフトボール投げの成績がたまたまよく、当時陸上部顧問の体育教師の目に留まり、勧誘され、流れのまま入部したという経緯です。
入部するまで、全く陸上部に興味はなく、や り投げという競技すら見たこともありませんでした。高校入学時にクラブ活動に、何かに入りたいと思っていましたが、何かに興味があるというわけでもありませんでした。

ただ中学校から継続してあるクラブ活動は避けようと思っていました。それは、中学校から入部できるクラブ活動だと、中学校時代に帰宅部であった私には入部した時点で同級生と差がついており、補欠候補となるのが嫌だったからです。 やり投げだったら、中学校からしている人は少ないだろう、そしたらスタート時点では他の選手とは差がないだろうという理由だけで、陸上部の顧問の勧誘のまま入部しました。


この時の自分は、幼少時代から父親に耳にたこが出来るほど言われた、何事も継続が大切だという事を実行しよう、とクラブ活動に励みました。通常クラブ活動は2年生で止めるのが一般的ですが、自分の場合は変な意地と根性で3年生の冬まで続けました。

よく文武両道と言いますが、これだけクラブ活動を続けたら、そこそこ勉強も頑張っていたといえば、理想的で絵に描いたような学生像を描けますが、自分は全く違って勉強はほとんどしませんでした。クラブ活動に夢中だったので、勉強に時間を割くことが出来ませんでした、と言えばまだ格好がいいかもしれませんが、私の場合は、勉強が好きではなく、したくなかったので、クラブ活動に励んでいた節があると思います。

気がつけば、卒業。進学?受験勉強は?将来何の職業につきたいの?何がしたいの?全くなく、クラブ活動が終われば燃え尽き症候群の状態になり、自分の将来を描く事はなく、高校生の卒業式を迎えていました。

受験勉強もほとんどせず、将来のビジョンも描いていない状態での、大学受験は当然失敗に終わり、あえなく浪人生活へと突入しました。

浪人時代の事

高校生時代は本当にクラブ活動に励み、気がつけば浪人生活でした。

周囲の友人は現役で大学に進学し、クラブサークル・アルバイト・合コンなど華やかに見える大学生活の満喫をうらやましくも、浪人生活の自宅から聞く環境にありました。
華やかに聞こえる友人達の声から避けたくて、意を決して、私は親に寮での浪人生活を希望しました。

今まで勉強もせずに遊んできた自分の生活態度を知っている親は、親の目の届かない所での浪人生活は無理だと決め付け、反対しました。 しかし自分の情熱や熱意に親からチャンスをもらい、寮での浪人生活をスタートする事になりました。

浪人時代の寮生活は想像する以上に過酷で、つい最近まで夢に出てきてうなされることもあるぐらいの生活でした。

起床と同時に、朝食。そして午前中の授業。昼食後、午後の授業。そして寮に帰宅。寮と予備校は建物の隣同士で通学時間は1分。帰宅後は夕食。そして寮内の自習室での勉強。部屋にもどれば、寮監からの勉強をしているかのチェックを受け、深夜まで強制勉強、そして就寝。そして次の日の朝を迎える。

この時の生活は時間に拘束され、勉強・食べる・寝る、だけの生活でした。この生活環境状態から、寮内からノイローゼ者や寮からの脱走をした浪人生が続発しました。高校時代に勉強を全くといっていいほど、していない私には大変きつかったです。
時間的な拘束だけでなく、勉強する事の強要を寮監からされても、勉強の仕方すら分かっていなかったので、大変でした。

しかし、高校時代に陸上部を継続して培った精神で乗り切り、両親に自ら説得して望んだ寮生活だから逃げることをしませんでした。 今思えば、寮生活での体験は大変貴重で、勉強の仕方を学び後々の人生に大いに役立つ事となりました。

大学時代の事

両親や周囲の親族や、浪人時代の友人からのアドバイスで、将来の職業を歯科医師になりたいと、志した結果、なんとか歯科大学に入学する事が出来ました。

歯科大に入学後、浪人時代の鬱憤をはらすべく、遊びに遊びまくるぞ!と思いきや、 金銭的に余裕のない私は、大した遊びもする事が出来ず、時間を持てあましていた自分に、上級生からのクラブ活動の勧誘を受け、気が付けば『ソフトテニス部』に入部をしていました。

大学時代のクラブは、サークルのような遊び半分の軽いイメージで、ソフトテニス部に入部しましたが、想像とは全く違ったものでした。熱い体育会系クラブで、地方大会、全国大会で優勝するぞ!と意気込む部活動でした。ソフトテニスの経験は、遊び程度の経験しかない私は、入部と同時にそく補欠でありました。

しかし、高校時代に培った陸上部での継続する事への素晴らしさを糧に、ソフトテニス部ではキャプテンになり、6年生の国家試験直前まで、クラブ活動に勤しんでいました。

その中で、多くの友人や先輩や後輩と知り合う事ができ、自分の人生において大変大きな財産となりました。

勤務時代の事

大学時代にお世話になった先輩からの誘いで、1年目の就職先を決めました。社会人になって直後に、自分の甘さや未熟さや愚かさを痛烈に感じる事となり、挫折の毎日でした。

学生時代に学んだ理論や知識を、日々の歯科治療にどう活かしてよいのか分からず、全ての知識が線ではなく、点と点の断片的な状態でした。患者さんを前にしても、治療技術も会話をするコミュニケーション能力もなく、毎日途方にくれていました。

仕事帰りには、同じ職場の先輩から厳しい指導を受け、帰路途中の満員電車内では、人目もはばかる事もなく、泣いていた毎日でした。

自分の為を思って、指導して下さる先輩の暖かい気持ちとは知りつつも、逃げ出したくなる毎日でした。後になれば、その厳しい毎日があったおかげで、今の自分があると思えるようになり、感謝の気持ちで一杯であり、自分の歯科医師として考え方のターニングポイントであったと思います。

社会人になってからは、一日でも早く治療技術を習得したいという思いから、休日返上で仕事や勉強に励みました。
ここで、学生時代のクラブ活動を通して培った精神力が大いに役立つ事となりました。

なかむら歯科クリニックを開業して

大学卒業後、幾つかの歯科医院にて勤務する事により、多くの方からの支えやアドバイスを得て、開業することを心に決め、現在に至っています。

自分の歯科医師になろうとしたきっかけの一つに、自分の体の中で唯一自慢出来る歯の良さを、患者さんにも味わって頂きたいという思いがあります。

私は、一昨年堅い物を不覚にも噛んでしまい、歯が割れた為に、金属の被せを、人生で初めて一つだけ入れました。それまでは、金属の被せをするような虫歯は一つもありませんでした。ですから、歯の痛みは、自分ではほとんど経験した事がありません。

そうすると、患者さんから 『先生は歯の痛みが分からないから、辛さが分からないでしょう。』、とよく言われます。確かにその通りだと思います。

逆に私は、自分の自慢出来る歯の健康状態の維持の仕方についての、自らの経験を通じて、なかむら歯科クリニックに通って下さる患者さんには、そのような痛みや苦痛を味わう事なく、健康な歯の状態を維持し続ける事が出来るお手伝いやアドバイスをしたいと考えております。

また、『なかむら歯科クリニックに通院した結果、虫歯や歯周病(歯槽膿漏)にならなくてすんだね』と、多くの患者さんから言って頂けるような歯科医院作りを目指したいと取り組んでいます。

まだまだ発展途上の医院ですが、皆様にお口の健康を通じて豊かな人生を提供するべく、日々研鑽に励む毎日です。

私たちはそれを望む意識の高い方々と共に歩んで行きたいと考えています。

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